「きゃ〜遅刻遅刻っ! ママ、どうしてもっと早く起こしてくれなかったのーっ!?」

まろやかな日差しとは裏腹に自室から飛び出ると、急いで階段を駆け下りる。
時間は既に8時半。今からダッシュで登校してもぎりぎり間に合うか微妙なところ。
「何言ってるの、何度も起こしましたよ。全然起きなかったのはあなたでしょ」

「むぅ〜〜〜」
唸って抗議して見せるも母の表情は涼しげだ。

「それで、朝ごはんはどうするの?」
「食べる〜! あむっあむっ!」

テーブルの上のパンを咥えながら着替え途中の制服を整えると、踵を返して自宅を出る。
周囲に既に学生の姿はなく、遅刻の二文字が脳裏によぎる。

「と、とにかく急がないと……っとっと……きゃあ!」
慌てたせいで玄関前の段差に躓き、地面へ寝転ぶように盛大にズッコケた。

「いたたた……」

「なにしてんのアンタ……朝から地面で寝るのはあまり関心しないわよ」

ふと見上げると、そこには人影がチラリ。
「あ、茉莉ちゃん。ちょっと躓いちゃって……もしかして迎えに来てくれたの?」
はぁ?という表情の茉莉ちゃんが眉間に皺を寄せる。
「どうして私が後輩を迎えに来るのよ……たまたまここを通りかかったら、アンタが盛大に転んでいたのが目に入ったから声を掛けてみたの。ところで……」

「ん?」

茉莉ちゃんが私を見下ろす。

「下着、丸見えになってるわよ?」

「なぬっ!?」
がばっと立ち上がり下着と制服を正す。

「アンタ、学園長からも「落ち着きがあるといいですね」って言われるくらいドジなんだから、もうちょっと落ち着きなさいよ」
「へへへ……ごめんごめん。気を付けるよ」

確かに最近転んでばかりな気もする…男子もいるんだから気を付けよう……

「あれ? というか茉莉ちゃんはこんなにゆっくりしてていいの? 遅刻しちゃうよ?」

今は遅刻間際のはずだ。茉莉ちゃんがこの時間に登校してるのはどういうことだろう?

「私は朝から家の用事があったので一限目はお休みをもらったの」
「あ、そうなんだ! じゃあいっしょに行く?」
「アンタは一限休みじゃないでしょ……さっさと行きなさいよ。遅刻するわよ。どうせまた校門で杏が待ってるんでしょ?」
「そ、そうだった〜〜〜! じゃあ先に行くね!またね!」

手を振って茉莉ちゃんに別れを告げる。
今度はなるべく気を付けながら行こう。うん。

軽く握りこぶしを作り気合を入れなおしてから、私は改めて、杏ちゃんが待っているであろう学校を目指すことにした。


「う〜ん、なにも思い浮かばないなぁ……」

まだ数人の教師と、朝練のあるクラブの生徒しか登校していない早朝、私は日直の業務でいち早く教室に来ていた。
この学園の日直はほかの学校とは少し違っていて、その日のホームルームに議題となる内容を決めて、日誌を付けなければならないのだ。

「先週のうちに考えておけばよかったなぁ」

ひとりごちると、ふと教室の窓からグラウンドを眺める。

グラウンドにはテニス部のクラスメイトが懸命に練習をしている。
私はというと、茉莉ちゃんが「あんたは同時にできるほど器用じゃないでしょ。日直してきなさいよ」ということで強制的に朝練を休まされた。

「とはいえ何も浮かばない……う〜ん」
鉛筆で頭をぐりぐりと弄りつつ頭を抱える。
「……こんな風に誰もいない教室で恋人と二人きりだったら、すごくロマンティックだよね」

あまりにも浮かばないネタを前にし、妄想に耽ってみる。

誰もいない教室。目の前には想い人。

私はそっと近づき、その人を抱えるように暖かく抱きしめると、そのまま座り膝をポンポンと指し示す。
「ここ、空いてるよ?」
すると相手も察したように、そっと膝に頭を置くと目を閉じる。

「野々花ちゃんの膝、あったかいね」

「ふふ……そう? よかったぁ」

私は相手の頭を優しく撫でながら至福のひと時に溺れていくのであった。

「ふふ……えへへ……」
妄想でついつい顔が緩んでしまう。こんなシーンがあったらドッキドキだよねぇ。
そんな妄想ははかどるものの、日直業務は進んでいない。
「はぁ〜、無理だよこれぇ〜〜〜」
どさっと頭を机に突っ伏す。

「あれ? 野々花ちゃん早いね。日直?」

聞きなれた声に、パブロフの犬並みの反射神経で飛び起きる。

「杏ちゃん! グッドタイミング!」
「え?」
「日直の課題の内容が思い浮かばないの〜〜! たすけてぇ〜」
「あらら、それは困っちゃうね。いいよ、いっしょに考えよう?」

そういうと、目の前の銀髪の天使はニコと微笑んだ。

なんだろう……もはや神々しすぎて、天使超えて神か何かなのかな?
差し込む後光がまぶしすぎる。

「杏ちゃん大好きぃ〜〜〜!」
騒がしすぎるほどにリアクションして杏ちゃんを抱きしめる。

「きゃっ! ふふっ…大げさだよ野々花ちゃん。頑張って二人で考えようね」

そう言いながら小さい天使は私の頭を優しくなでてくれる。

うん、こういうのもやっぱり悪くないよね。
もはやこのまま寝たいくらい気持ちいいんだもん。

「むにゃあ…杏ちゃん〜……」

「わ、わー!寝ちゃダメだよ野々花ちゃん〜っ!」

日直どうしようとか練習どうしようと考えながら、天使のぬくもりを噛みしめながら、私はまどろみに包まれていった――


「葉月ちゃんー、支度できたー?」
「ちょっと待ってぇー!もう少し〜〜!」

一階のリビングから呼びかけてくる杏ちゃんの問いかけに、慌てて着替えながら応答する。
今日は日曜日。杏ちゃんと前から約束していたショッピングに行くわけだが、昨晩の夜更かしが響いて案の定の寝坊である。

「まだ11時だからあわてなくてもいいよ〜」

そう、もう11時なのだ。せっかく久々に杏ちゃんとふたりでデートだというのに、楽しみすぎてついつい遅い時間まで起きてしまった。
私は昨日から決めていた服をクローゼットから取り出して着替えると、猛ダッシュで一階に降りる……が。
「ちょっ……あわわわ〜〜〜!」

階段前でツルンと見事に滑り、どたどたと尻もちをつきながら階段を落下していく。

「あいたたた……やっちゃった」

転んだ拍子に大開脚しつつもなんとか無事だったようだ。

打ち付けたお尻をさすっていると、杏ちゃんがお母さんと杏ちゃんが慌てて駆け寄る。

「はぁ……朝から何してるのよ、この子は……」
「えへへ、ちょっと慌てちゃった」

お母さんが娘の哀れな姿に頭を抱えながらも手を引いて起こしてくれる。

「の、野々花ちゃん、だ、だいじょうぶ!?」
助け起こされつつ誤魔化しの笑いを浮かべていると、杏ちゃんが心配そうに声をかけてくれる。私は指でVを作りつつ笑顔で答えた。

「お待たせ杏ちゃん、それじゃいこっか」
「うん、そうだね。でもその前に、はいこれ」

杏ちゃんは懐から手早く絆創膏を取り出す。

「あわわ……い、いいよこれくらい! 大丈夫だよ!」
「大丈夫じゃないよ。ダメだよ」

まじめな表情でそう言い放ちながら、擦りむけた所に優しく絆創膏を貼ってくれる杏ちゃん。その仕草と綺麗に揺蕩う銀の髪がなんだか愛おしくなり、思わずなでなでと頭を撫でさすってしまう。

「ふわっ! な、なに!? どうしたの?」
私の突然の行動に驚いた杏ちゃんが後方に飛びすさる。

「え? あはは、なんとなく杏ちゃんの髪いいな〜って思って」
「そ、そう……びっくりするから急にはやめてね……?」

恥ずかしそうに顔を赤らめながら髪を整える杏ちゃん。

か……かわいい……

「杏ちゃん〜〜〜!」

「わわわ!」

たまらなくなった私は、今度は杏ちゃんを手繰り寄せて身体をぎゅっと抱きしめる。

「こ、今度はどうしたの野々花ちゃん?」
「なんとなく〜、だよ〜」
そう言いながらすりすりと顔をこすりつけていると、お母さんがあきれ顔で腕組みしていた。

「あなたねぇ……朝っぱらから杏ちゃんに妙な事するんじゃないの」
「あ……」
ぐい、と引きはがされる私と杏ちゃん。
「ぶー、いいところだったのに〜」
「馬鹿なこと言ってないで、支度したのなら早く行きなさい。杏ちゃんずっと待ってたんだから」

そうだった。ここで愛でなくても今日は一日ずっと杏ちゃんを独占できるのだ。

「よし、行こう杏ちゃん!」
「うん。まずはどこから行こうかな……」

少し考えこむ杏ちゃん。

「私さ〜、杏ちゃんにお勧めの下着があるんだよね。最初はそこから行こ!」
「し、下着!? い、いいよそういうのは!」
ぶんぶんと頭と手を思い切り振り、NOの表情をする杏ちゃん
「いーからいーから。とりあえず行こ。だいじょうぶ、すっごい可愛いの選んであげるから私に任せて!」
「ええー!ぜんぜん大丈夫じゃないよー!」

そういう杏ちゃんの返答を待たずに手を引くと、お母さんに行ってきますの挨拶をする。

「それじゃお母さん、行ってくるね〜!」
「はいはい、気を付けてね。それと杏ちゃんは野々花に気を付けてね」
「既に不安ですーーー!」

手を振るお母さんの笑顔を後ろ手にたじろぐ杏ちゃんを連れて、私と杏ちゃんはショッピング(?)に向かうのであった――



「えっと…ここが引っかかってるのかな? う、う〜ん…あっ、これかな? ええっと… ここかも? えいっ! …あ痛たた…とれないよ〜、ふぇ〜ん…」

こ、これは何気に大ピンチ? もうかれこれ一時間以上この状態だよ。
お腹減ったなぁ…私、このままここで衰弱して、新学期になって誰かが発見した頃は白骨化して…。
「そんなの嫌だよ〜っ?」
思わず大声を出すと、少し離れた場所から、
「…何が嫌なの?」と、不審そうな問いかけが聞こえてきた。
声のする方へ首を向けられず確かめようがないけど、間違いない、葉月ちゃんだ!
「葉月ちゃ〜ん、助けて〜っ!」
自分でもびっくりするほどの大声で私が叫ぶと、素早く足音が近づいてくる。

「ど、どうしちゃったの、一体?」

目の前に現れた葉月ちゃんは、状況が呑み込めないのか、ちょっと戸惑いながら訊ねてきた。
その問いかけが終わりきる前に私は捲したてる。
「あ、あのね、私、一人でサーブ練習してて、ボール打ち尽くしたから、拾い集めてたの。それでフェンス際のボール拾おうとしたら、髪の毛が引っかかって…外そうとしたら、かえってドンドン絡まっちゃって。休み中だから誰も来ないし、お腹もすいてくるし、ずっとこの格好のまま、ここで死んじゃうのかなって…」
ここまで一気に吐き出すと、目を丸くして聞いていた葉月ちゃんが一気に破顔した。
「わかったよ。もう、何も言わなくて大丈夫。今助けてあげるから」
微笑む彼女の優しい言葉に思わずウルっときて、
「葉月ちゃ〜ん…」と情けない声を出してしまう。
「えっと…ここが引っかかってるから…こうして…あ、ここも絡まってる…ふふっ」
ふいに笑い出した葉月ちゃんに、
「どうしたの? 何が可笑しいの?」と尋ねると、
「いや、さすが野々花だなって。どうやったら一人でこんなに面倒臭く絡まれるのかなって思ってね」と、からかうような口調で返してきた。
「へへへ、それほどでも…」
思わず私が口にすると、
「誰も褒めてないよ、ふふっ」と何故か嬉しそうに答える葉月ちゃん。
そんな会話をしながら4、5分経った頃だろうか。
「はい、これでもう大丈夫。野々花、立ってみて?」
手をパンパンと払いながら葉月ちゃんは言った。
…立てた! 絡まってた髪の毛は一本残らず綺麗に外されていた。
「ありがとう、葉月ちゃん! 葉月ちゃんは命の恩人だよ!」
大声で言いながら、彼女の右手を両手で握ると、

「大げさだなぁ」

と穏やかな笑顔で答えてくれた。そして、私の手を静かに振りほどきながら、
ちょっと真顔になってこう言った。
「でも、たまたま登校して来た私が見つけたから良かったものの、これが先生とか男子だったらちょっと大変だったよ」
「どうして?」
意味が全くわからず小首を傾げて尋ねる私に、葉月ちゃんはさっきまでの優しい笑顔に戻ってこう言った。
「相当刺激的なポーズだったよ、囚われの野々花は」

「ふぇっ?」

思わず声を出した私は、顔全体が一気に紅潮するのを感じていた。


まろやかな夕暮れ、差し込む光で朱色に染まったバイオリンが繊細な音色を奏でる。

どれくらい演奏していただろうか?

生徒会のミーティングを務め、その後に部活へ顔を出し、いつものように忙しない時間が通り過ぎたあと、やっと「自分の時間」が訪れた。
私は先生から音楽室の鍵を借りて部屋に入り、すぐにでもバイオリンを弾き始めると、何かに導かれるように音を奏でていく


バイオリンに触れたのは10歳の頃。好きでも嫌いでもなかった音楽関連の練習も、バイオリンを知ってからは苦にならなくなった。むしろ生きがいにすら感じられた。

「はぁ?…良い曲だね?……」

ふと声に気づき後ろを振り向くと、野々花が目を細めてウットリとしていた彼女に演奏を聴かれるのは初めてでもない。
いつもこうして急に現れるのは困り物だが。

「ふふっ、いつからいたの? 野々花」
「葉月ちゃんのバイオリンは相変わらずウットリしちゃうよねぇ……天使の音色みたい」

私の質問には答えずに、気恥ずかしくなる褒め言葉をくれる野々花

「ありがとう。いるならいるって言ってくれれば良かったのに」
演奏の手を止め、終えてからゆっくりと楽器を仕舞い始める

「あれ!?やめちゃうの!?もっと弾いてていいのに!」
オモチャを取られた子供みたいに頬を膨らませて抗議する野々花

「野々花が来たってことは、もう結構いい時間なんでしょう?今日はここまでね」
「む? ……まぁ仕方ないか?。もう6時だしねー」
私は「そういうこと」というように野々花のほうへ向かう
「ねぇ葉月ちゃん。葉月ちゃんはプロを目指したりはしないの?」
「そうね、なれたら楽しいかもね。野々花がもっと聴いてくれたらなれるかも?」
「聴く聴く!全然聴くよ!でもその前にお腹空いちゃったからどっか寄って帰ろ!」
そう言いながら私の腕にしがみつく野々花の体温を感じつつ一緒に帰路につくことにした。



夕暮れ時の校舎内。今日もいつものように委員会をこなしてから、ひとり音楽室でピアノを奏でる。

今年も年度末が近いせいか、最近は生徒会の仕事も忙しく、なかなかまとまって演奏する時間がない。
たまに隙を見つけてはこうして日ごろのストレス発散も兼ねて好きな曲を弾いているというわけだ。

何曲か続けて弾いた後、ふと外を眺めると仲の良さそうなカップルが、一緒に下校する様子が目に映った。
楽しそうに腕組をしながら下校する二人を見て、妄想に耽る。

一緒にどこへ行くのだろう
付き合って長いのかな?
……そもそも恋人ってどうやって作るのだろう?

などと、他愛もない妄想をしてみる。
「私にもいつか恋人ができるのかしら……」
そう思いつつ、少し想像してみる。

生徒がいなくなった下校時間、恋人と二人で音楽室にいる私。
夕焼けでいつもより大胆になった私は、彼を甘く誘うと、次第に二人はゆっくりと抱き合いながら……

「……っ!」

急に恥ずかしくなり顔を真っ赤にする。
「て、展開がいくらなんでもいきなりすぎたわね……」

経験がないせいか、こういう想像をするとどうしても行き過ぎてしまう。
気を取り直し、鍵盤蓋をそっと閉じて帰り支度をすると、鍵を先生に返して校門へと向かった。
先ほどのカップルはもういないが、彼らがいたであろう場所でふいに立ち止まる。

「ふふっ…そうね、いつかそういうことがあっても、楽しいかもしれないわね」

私はもう一度だけ妄想してひとりごちると、なんだか少しだけ軽やかになった足で帰路についた。


夕暮れ時、しん、と静まり返った校舎。
屋上へと繋がる階段の段差に座り込むと、私は昨日ようやく手に入れた本を鞄から出す。
自宅や図書館で読んでも構わなかったのだが、なんとなく家まで我慢ができず朝から持ってきてしまっていた。

「ふぅ……今日も忙しかったな……やっと一区切りね」

ほっと息を吐く。

この時間にこの場所へ人が来ることはほとんどないのだが、それでも学園での自分の立場を考えればこんなところで急に本を読むなんて、ちょっとした冒険気分だった。
鞄を横に置き、少し足を開いてリラックスした姿勢を取ると、ゆっくりと本を読み始める。

タイトルはアイザック・アシモフの「滅びゆく銀河帝国」。SF作ではあるが、ミステリ要素もある作品だ。
杏に感化されて読み始めたシリーズではあったけど、気が付けば自ら古本屋に足を運び、初版の古書を探すほどにハマってしまっていた。

音もない世界で私がページをめくる音だけが響きわたり、心地よい音色に変わっていく。
この感覚はピアノとはまた違った趣を感じられて新鮮だった。

「ん?」

しばし集中して過ごしていると、物陰から僅かな音がした気がしてそちらを伺う。

『ニャ〜…』
見ればそこから迷い込んだのか、茶虎模様の仔猫がガサゴソと周囲を漁っていた。

「あら。ふふ、あなたどこから入ってきたの?」
私は可愛い迷子さんに話しかけると、口を鳴らして呼んでみる。

見知らぬ場所に迷い込んで弱っている様子なのか、仔猫はずいぶんとか細い声をあげながらすり寄ってきた。

「お腹すいてるの? う〜ん、今なにか持ってたかしら」
私は一旦、読書を中断すると鞄の中を確かめる。鞄の中には運よく昼食で買ったものの食べる時間のなかったツナサンドと牛乳がある。

「まだ時間的には大丈夫よね。ちょっと味が濃いかもしれないけど平気かしら」
食べやすいように千切って手のひらに乗せてみせると、仔猫はやや警戒しながらも口に含んでいく。
「ゆっくり食べてね。今お水持ってきてあげるからね」

仔猫が食べている間に水道まで行くと、適当な器を探して水を持ってくる。
「はい、お水。一気に飲んじゃ駄目よ?」
仔猫はわかったというようにニャーと鳴くとお水を飲み、しばらく食事を済ませてから顔を満足げに洗い始める。

ひとしきり顔を洗い終わると、ぴょんと私の膝の上に乗り、ゴロゴロと喉を鳴らす。
「君、ひとりなの? お母さんは?」
こんな場所に仔猫を連れた猫が入り込むとは考えにくい。そうすると人に驚いて逃げ続けて迷い込んだというところだろうか。
「うーん……どうしよう。このまま置いていくわけにもいかないしなぁ」

一瞬、思案してみる。

「君、私のうちにくる?」
仔猫に問いかけるが、変わらず私の膝で喉を鳴らすばかりで返答はない。

まぁ、これも縁だし、いいかな。

迷い猫の掲示を出してみて、もし見つからなかったり野良猫だったらそのまま飼おう。
「名前、どうしようかな。君は何がいい?」
仔猫を抱きかかえる。くりくりの瞳がなんとも愛らしい。

「目…瞳…アイ……ん? よし! アイザックにしよっか!」

『ニャー』

完全にその場のノリだが本人も気に入ったようだ。
「うん、じゃあ今日は帰ろうねアイザック。とりあえずお風呂に入って明日は病院だね。それとちゃんとしたご飯も食べないとね」
『ニャー!』

ひょんな事から同居人が増えてしまったけど、これも運命的な出会い…なのかな?
そんなことを考えながら新しい家族と一緒に帰路に着いた――


初夏を思わせる日差しの昼下がり、人気のない教室で私はちょっと声を張っていた。

「…と、感じています。そこで、私、木之元葉月は、今までの実績を元に、次期も更なる学園生活の充実に向けて…」

気が入り更に音量を上げようとした時、ガラガラとおもむろに扉が開いた。

「葉月ちゃん、何やってるの?」

私が振り返ると、そこには引き戸に手をかけたまま、こちらを覗う杏の姿があった。
「あ、午後に生徒会選挙の立ち合い演説会があるでしょ?それの練習。ミスしたら恥ずかしいもの」
私は何気なく、そう答えた。すると、杏の表情が一瞬で切り替わった。
いつもの感情を抑えたクールな表情とは明らかに違う、驚きに満ちた真ん丸な眼差しで、
「ミス? そんなことあり得ない」
「えっ?」と驚く私に、すかさず、
「…だって葉月ちゃん、いつだって完璧じゃない」
私が完璧?…杏にまでそんな風に思われてるんだ。私だって毎回緊張するし上手くいかないことだってあるのにな…。そんなことを思っていると、ちょっとの間沈黙が生まれた。

すると、それを破るかのように、
「でも、そうだよね…葉月ちゃんも人の子なんだよね」と、杏は小声で言った。
「…杏」
見返すと、彼女の瞳は、いつもの好奇心に満ち溢れ生き生きしている。私に見つけた新たな一面に興味津々なのだろう。
この眼差しに見つめられると、うかつな言葉は返せないな。更なる沈黙がやけに長く感じる。

「なんだか暑いね。…窓、開けるね」

私は文字通り空気を換えようと窓辺に歩み寄り、開け放った。
ぶわっ…音が聞こえてきそうな勢いで暖かい風が、花びらと共に吹き抜けていった。
大きめの花びらが、スローモーションのようにゆっくり不規則に舞ってゆく。
花壇に咲き誇っていたアマリリスだ。花散らしの風、季節が変わるな…そう見とれていたら、
「葉月ちゃん、綺麗」
ウットリとした表情と共に、思わずもらしたといった風情で杏が呟いた。
「花びらのおかげで、そう見えるのかな?」
照れ隠しにちょっとおどけて私が答えると、杏はいつもの冷静な口調で言った。
「アマリリスの花言葉、知ってる?」
「なあに?」
「誇り…それから」
私の問いに、無表情なまま答えた杏は、何故かちょっと頬を赤らめて続けた。
「輝くほどの美しさ…葉月ちゃんにぴったりだね」
「えっ?」
予期せぬ言葉に、思わず大きな声が出た。
私が?それは杏の方がお似合いだよ。咄嗟にそんな台詞が口をついて出そうになったが、私を見つめる杏の、あまりにまっすぐな眼差しと、真剣そのものの表情がそれを止めた。
杏は本気なのだということが刺さるように伝わってきたから。
こんな素敵な女の子が、私をそんな風に思ってくれてる…その実感に震える声で、

「ありがとう」

戸惑いながら一言呟くのが精いっぱいだった。


いつも真っ暗なお空を見上げていた――
黒の中にきらきらと光る、星々が描(えが)いた歴史の幾星霜は、いつだって私の胸を鳴らしてくれた。

この瞬間が大好きだ。
だって宇宙はいつだって大きくて、あったかくて、優しくて。
「知ってる? トリさんたちはお月さまからの使者なんだよ?」
なんて幼いころに両親へ言ったら、「そうだね」なんて軽く流されたあの日からの私の夢。

宇宙(そら)に羽ばたきたくて、その為の羽が欲しくて――

新しい学び舎としてこの学園を選んだ理由は、単に「お空に近いから」だった。
山の上の開けた場所にあるこの学園は、鳥さんたちの憩いの場所でもあるらしいって聞いて即座にここに決めた。
なんでも学園長さんは楽しい人だとか。でもきっと私は周りとは合わないから、また一人なんだろうな……まぁいつものことだよね、なんて思っていた。

でもね。ある日会ったあの人は太陽みたいに明るくて、馬鹿みたいに笑うの。
「杏ちゃん杏ちゃん」って、まるで私の中の暗い宇宙を照らすように、いつだって全力でその太陽は輝いていた。

いつからだろう? そんなあの人が気になって、気が付けば自分から話しかけていた。
ほら見て? 今も小鳥さん達があの人の周りにやってきては楽しげに歌ってる。
あの人と一緒なら、私も飛べるかな? ううん、きっと飛べるよね。

「きゃ〜、杏ちゃ〜ん! 鳥さんが私のお弁当つついてる〜!助けて〜〜って、あぶっ!」
野々花ちゃんが小鳥さんと戯れる(?)と同時に盛大に顔から地面にダイブした。

「くすっ、なにしてるの?野々花ちゃん」

野々花ちゃんに近づくと、私はそっと手を差し出す。

「ふえぇ〜〜ん、あんちゃん〜〜〜お弁当が〜〜」
「無くなっちゃったね……あ、でも小鳥さん達のごはんになったかも?」
「え〜〜〜〜〜!それじゃわたしお昼なしになっちゃうよ!」
真剣な表情で握りこぶしを作る野々花ちゃん。

「ふふ…そだね、じゃあ私のあげるから一緒に食べようか」

そう伝える私に、うん、と満面の笑顔で答える彼女。
その笑顔にまた安堵し、「私の太陽」と今日も一緒に過ごしていく――



今朝も陽ざしが眩しい。プールサイドにはまだ誰もいない。
朝の誰もいない時間帯のプールの水面(みなも)に光が反射しては七色の光が辺りを照らす。
まるで宇宙とは正反対の、明るくて綺麗な地球らしい光。

「神秘的……」

飽きることなく見つめてから、私は持参した白の水着に着替えると、“私だけの静かな海”に飛び込んでいく。

水の中に身を落とすと、喧騒も気配もない静寂が私をゆっくりと包み込んでいく。
少し泳いで顔を上げると、そこには水中とはまた違った静けさが私を迎えてくれる。

「ふぅ、気持ちいい……」

そのまま仰向けになり、ぷかぷかと水面に漂いながら、なんとなく水を掬ってはお腹に掛けたりして無邪気に遊んでみた。

暫く泳ぎを堪能してプールから上がると、ガラス張りの天井から大きな雲がやってきて影を作ると、白い雲に覆われた光が、先ほどとはまた違った光で私を抱きしめてくれた。
「あの雲、なんだかソフトクリームみたい。あ。あっちの雲はすごくおっきいな……まるで龍みたい……ふふっ」
なんとなくそれを見上げていると、雲が食べ物や幻想的なものに見えてきてなんだか面白い。

「ふふっ、おはよう、食いしん坊さん」

ふと、声を掛けられた。
声の先に目を向けると、水着姿の葉月ちゃんがいた。
ソフトクリームのくだりを聞かれたようでちょっと恥ずかしい。

「おはよう葉月ちゃん。葉月ちゃんも朝のプール?」
「ええ。時間があったから、暑いしちょっと入ろうかなって」

葉月ちゃんはそう言いながら飛び込み台まで行くと、綺麗なフォームで泳ぎ始めた。
その姿はとても美しく、まるで水泳の選手みたいで思わず見とれてしまう。

葉月ちゃんはひとしきり泳ぐと、プールサイドの私の前までやってきて声を掛けられた。
「杏はもう泳がないの?」
「葉月ちゃんはすごいなぁ……なにをしても上手で尊敬しちゃう」
「そう? 私は杏ほど頭も良くないし、私からしたら杏のほうがよほど凄いわよ?」
「そんなことないよ。私は葉月ちゃんほど多才じゃないし、野々花ちゃんや茉莉ちゃんみたいに明るくもないし……」
自分で言いつつ、少し落ち込んで顔を潜めると、チョンとおデコを叩かれた。

「つまらないこと言わないの。らしくないゾ?」

そういうと葉月ちゃんは真夏の日差しよりも明るく笑ってくれた。

「それにね、自分で言うのもどうかと思うけど、私は杏の学んでる宇宙工学? 全然わからないからね? 私だって勉強には自信あったから結構キズついてるのよ?」
両手を大げさに広げて「降参」のポーズをしてみれる葉月ちゃん。

「あはは、そうかも」
葉月ちゃんのポーズが普段の葉月ちゃんのイメージと異なり、思わず笑みがこぼれる
「そんな天才ちゃんはお仕置きしちゃうゾ」
「わわっ…!」

ぐい、と葉月ちゃんは私の腕を取りプールへ引き込む
不意にプールに落ちて困惑していると、葉月ちゃんが抱きしめてくれる。

「杏、貴女には貴女しかできないことがいっぱいあるでしょ? みんな杏が好きなんだから……」
ぎゅうと抱きしめられ、頭をポンポンと優しく叩かれる。
冷たい水と葉月ちゃんの体温が重なりあい、すごく落ち着く……。

「うん……ありがとう」

「さて、と。せっかく二人きりだし、競争しようか? 負けないわよ?」
葉月ちゃんはいたずらっぽく笑う。

「うん」

それに笑顔で答えると、二人しかいない“海”に飛び込んで行った。


「はぁ〜……いい天気」
ぽかぽかと日差しが暖かい土曜日のお昼時。私は明日のお花見の下見で近くの公園まで来ていた。
空はびっくりするくらいの晴天で、思わず息が漏れる。
まだ人がいない時間だからか、都会とは思えないほどに空気は澄み渡り鼻腔にさわやかな空気が心地よく流れてくる。
“みんなでお花見にいこう”と言い出したのは野々花ちゃん……ではなく、珍しく葉月ちゃんからの提案だった。
葉月ちゃんいわく「野々花は今の時期になると休日に寝てばかりで不健康だから」とのこと。
(野々花ちゃんは少し納得いかない様子だったけど……)
そこからはじゃんけんで場所の下見係を決めようという話になったが、私は迷わずこれに立候補した。
理由は簡単で、葉月ちゃんと茉莉ちゃんは忙しいだろうし、野々花ちゃんに任せるのはちょっと心配だったし、それよりなによりココには「アレ」があるので、ひとりで先に楽しみたいという欲求が勝ってしまった。

この公園は市のなかでも大きな公園で、夏になるとお祭りできるくらいに広い。そのうえ“小山”で隔てられた階層建ての作りで静かになれるスポットも多く、カップルも多く来ているのだが、ちょっとした隠れ家スポットがある。
「今日は誰もいないといいなぁ……」
私は公園の中を置くまで進んでいく。
木々で分けられた細い道を抜けると、少しだけ開けた場所へと出る。
そこには小さなベンチがひとつと、両手を広げても届かないくらいの幹を持った樹が一本。どっしりと、まるで私におおかえりを言うように立っていた。
「ふふ……またちょっとお邪魔するね」
私は軽く挨拶する。それに答えるようにざわざわと木々がそよいで私を出迎えてくれた。

私はここが大好きだった
この場所は町でも高い場所に位置しており、空が近い。夜になるとまるで吸い込まれるように空と宇宙が出迎えてくれる。
広さはそれほどでもないが、逆に公園の騒がしさとは無縁でとても落ち着ける空間だ。

私はいつものようにベンチに腰掛けると、やがて横になり空を見上げる。
ベンチの頭上には木々が掛かっておらず、こうすると空がよく見えるのだ。
「ちょっとはしたないけど、今だけいいよね」
そのまま体から力を抜いて、頭の中を無にしながら空を、そして宇宙を見上げると、自分がまるでそれらと一体化したような不思議な感覚がやってくる。
「あはっ、この感覚がすき……」
らしくなく大きく笑う

空がすき。
宇宙がすき。
この世界が大すき。

今ここにいるのは“お行儀の良い杏”でもなく、“わたしじしん”でもなくて、「わたし」がただそこに在るだけ。ただそれだけの時間を感じられるここが大好き

どれくらい眺めていただろう。ううん、どれくらい溶けていたんだろう……。
時間を忘れ、吸い込まれそうな刻を紡いでいると、「時間だよ」って樹がささやきながら教えてくれた。
あたりを見れば少し夕暮れが差し掛かってきて、空も朱色に染まりかけていた。
……残念だけど今日はここまでかな。
「うん、充電かんりょーですっ」
すっくとベンチから起き上がると、“いつものわたし”に戻る準備をする。
乱れた服を整えてから、この場所の主にそっと手を当ててお礼を伝える。
「今日もありがとうね、またね。」
しばしの沈黙と静寂が流れていくと、だんだんと普段の私に戻っていく。
「……さてと。お花見の場所を探さないとね」
私は名残惜しそうにその場を後にすると、木々から何度目かの「あいさつ」の声を聞きながらその場を後にした――



「ねぇ茉莉。アンタ何してんの?」

「何って柔軟でしょ。見たらわかるじゃん」

プールサイドで腰を落ち着けて横たわり、太腿を持ち上げる私に友人が尋ねる。

「柔軟っていうかそれ…開脚じゃない…?」
「どっちでもいいでしょ。この方が楽なの。滑る心配もないし。ベツに誰も見てないんだからいーじゃん」

私は会話をしながらも柔軟を続ける。

「第一、柔軟もしないでプール入ったらヤバいじゃん。やっといた方がいいよ」
私を見下ろす友人にそう告げるも、友人はきょとんとしたままだ。

「アンタ……意外と真面目よね。今時プールの授業でそこまで気合い入れて柔軟するコ見かけないわ」
友人が嘲笑気味に苦笑する。

「は!? 別に真面目とかじゃないし! 足ツッたら痛いからだし!」
「はいはい、顔真っ赤にして言わなくていーから」

今度は苦笑混じりに、やれやれという表情で私を見下ろす友人。
一瞬、無用な強がりに対して「しまった」とも思ったが、訂正するのも妙におかしい話なのでやめた。

「あ、茉莉、センセイきたよ」

促された方を見つめると、ジャージ姿の担任教師が見えた。

「さっさと終わらせないと、開脚見られちゃうよ??」

私はサッと身体を起こすと、ぐいと背筋をひと伸ばしにする。

「さて、今日も元気に頑張るぞー!」
大きな声を上げて気合いを入れる。
「熱血じゃん。素直で真面目ねー、茉莉ちゃんは」
「ちーがーうー!」

茶化す友人と二人で、子供みたいにはしゃぎながら私は集合場所に向かった。



「え? 何? これが見たいの…? いいよ……」

足を地面に落ちつけて左右に大きく開く。

「ほら…これが女の子の生のパンツだよ……」

言葉にすることで茉莉は下腹部へと自然に集まる視線に熱いものを感じた。

気が付けば恥丘周りに薄っすらと淡い筋が下着へと染みを作り、その感覚が一層と茉莉に被虐感を与え、興奮を増長させる。

「あは…うん、いいよ…もっと近くで見て……匂いも嗅いでイイんだよ…?」
「そういうと茉莉は・・・」

すぱぁーんっ!

乾いたきれいな音が教室内に響き渡る

「アンタなんてモンを描いてんのよっ!」
私に鞄で思いきり頭を叩かれた友人が机に突っ伏す。

「いたたた…なにすンのよ茉莉…ちょっと茉莉でエロ漫画書いてただけじゃん」
美術部所属の友人は悪びれる様子もなくケロリと言い放つ。

「アンタねぇ…なんで美術部がそんなもん描いてんのよ。美術部ならもっとマシなもん描きなさいよ」
「いやねぇ茉莉、漫画は文化なのよ?」
「文化ねぇ…同人誌、だっけ? 文化ってか単にアンタの趣味じゃないの?」
「これだからシロートは……同人誌は日本が世界に誇る立派なカルチャーよ」

やれやれといった様子で肩をすくめて説教する友人

「大体、私はこんなエロいポーズしないわよ」
「とにかくさ、次のイベント用なんだから邪魔しないでよ。締め切り近いんだってば。あ、そうだ茉莉、売り子してよ。この子がモデルです〜ってやったら絶対売れるって」

まくしたてる友人

趣味に熱心なのは結構だが、もう少しなんとかならなかったんだろうか
「イヤよ。なんで私がそんなこと……」
「手伝ってくれたらミジャのスイーツ食べ放題でどうだ!」

断る気満々だった私の口が止まる。

ミジャというのは表参道で有名なスイーツのお店の略称だ
味もさることながら見た目も非常に煌びやかで最近クラスで人気が高い。
金額もそう高くはないものの、食べ放題となれば話は別だ。
「そもそもさ、私はそんなネコナデ声出さないわよ。あとリアリティも欲しいわね。場所とか」
「お、契約成立?」
してやったりという顔で破顔する友人
「うるさいわね。どうせモデルにされるんなら私にも口出しさせなさいよ」

からかってくる友人へ意趣返しとばかりにあしらうが、まぁ自分がモデルだなどと言われれば別に悪い気はしないものだ。

「ねね、茉莉。茉莉は好きな人とかいないの?」

「なによ急に……いないわよ別に」

「ふーん…じゃあ相手は誰想定にしようかなぁ」

「好きな人、ねぇ…」

「え? なにかいった?」

「なんでもないわよ。ほら、それよりも下着の柄も変えなさいよ」

問いかけなのか独りごとなのかわからない言葉にははっきりと答えず、夕焼けが眩しい放課後の室内で、友人に指定をしつつ作業を手伝う。

「あぁ、茉莉ちゃんは縞パンだったもんね」

薄ら笑いでにやりと笑う友人

「別にいーでしょ!かわいいから好きなだけよ!あといちいち“ちゃん”を付けるなっ!」

お互いに戯れながら進めていく中で、私はなんとなく妄想し、「そういう人」が居てもいいかな?などと意味もなく妄想していた。



「もう一本いくよー!」

真夏日かと思うほどの日差しの中、テニスコートに茉莉の威勢の良い声が飛び交う。

時期は五月。梅雨入りした直後でまだまだ初夏とは言えない季節だが、異常に高い湿度にあてられたコート内では一年生(野々花含む)が四苦八苦していた。

「ひ〜!もう無理だよ〜!」
練習開始から一時間半ほど、いよいよ体力の限界が近づいてきた野々花が情けない声で根を上げる。

「一年! ムリするなー! ヤバくなったらちゃんと休みなさ―い! あ、洋子、このままもう一本いくから水とタオル取ってきて」
茉莉は自身の練習をしながらも、バテ気味の野々花や、入学直後でまだ練習に慣れない一年生を休ませつつも、大会の近い自身と二年生組は練習を続けていた。

「まつりぃ〜……あんたちょっと飛ばしすぎじゃない……?」
一年を休憩させている間に連続で何本かこなした後、同学年の洋子が茉莉に話しかける。

「ん? そう?」
「そう?って……明らかにあんただけ練習量が異常でしょ……時期キャプテンに任命されて張り切るのも分かるケドさ……」
「別に張り切ってるわけでもないよ。フツーフツー」

休憩中、ラケットを股に挟みつつ、水で喉を潤しながら真新しいタオルで汗を拭きとる茉莉からは余裕の表情すら伺えたが、実際、茉莉はかなりの無理をしていた。
茉莉は三年生が引退した後の時期キャプテンが既に内定しており、持ち前の責任感から練習にもどうしても力が入ってしまう。
そんなオーバーワーク気味な茉莉をこうして周囲が気遣っている事もしばしばあった。

「どーでもいいけど股にラケット挟むのはどうなのよ? 先生に見つかったら怒られるよ」
「だってこうすれば両手が空くじゃん。ラケットを地面につけると汚れるから嫌なのよ」

茉莉のテニス愛は人一倍強い。
責任感ももちろんあるが、何よりも二年という大事な時期にテニスを怠けたくないという想いが、今の彼女を押し上げている原動力でもあった。

「ヨシ! 休憩終了! 次は二年で二組に分かれてダブルスの練習するよー!」
周囲から「うぇぇ〜……」という悲鳴が聞こえる中、それとは対照的なまでに輝く茉莉の笑顔は、暑い日差しの太陽よりも眩しかった。


「参っちゃうなぁ……どこに仕舞ったかな……」

放課後の教室、バッグをひっくり返しながらひとり探し物をする。
もう部活が始まるというのに、リボンの予備が見当たらない。

「ないなぁ……って、きゃあっ!」

慌てすぎてバランスを崩し、その場でしりもちを付いてしまう。

「いたた……もうっ、今日は本当ツイてない……」

朝はスカートのボタンが外れて大騒ぎ、昼は学食に間に合わずご飯抜き、そして放課後はこれである。

「これじゃ野々花を笑えないよね……」
ひとりごちてみるが状況は変わらない。
時間が徐々に過ぎて行くばかりで焦りが募る。

「あぁ〜! んもぅ、いいや! 今日は誤魔化す!」

今は県大会の予選も迫った大事な時期だ。主将(キャプテン)の私がこんな理由で遅刻なんてできない。
私は千切れたリボンをなんとか結びなおすと、ひっくり返した鞄の中身を急いで元に戻す。

「ちょっと不格好だけど……我慢我慢……」

と、半ば諦めかけていた所、視線の中に小さな箱が目に入る。
これは昼頃に野々花が「いつものお礼」と言ってくれたやつだ。

「そうだった。もらうだけもらって、ご飯も食べられずに居たので中身を確認できてなかったな……ごめん野々花」

私は心で野々花に謝ると、丁寧に包装紙を取り外して小箱の中身を確認した。

「あ……」

中を見て思わず声が出る。

その中には、丁寧と表現していいようなとても上品な色合いの黒のリボンが入っていた。
まさに僥倖、って言うんだっけ?こういうの。

「あいつ、どんだけタイミングいいのよ……」

思わずくす、と笑みがこぼれる。

「っと……。浸ってる場合じゃないわね、急がないと」

真新しいリボンを急いで身に着けると、私はこれまた大急ぎで部室に向かった。

部室の前にあるコートまで来ると、既に威勢のいい声が四方から聞こえてくる。
なんとか時間前には到着できたはずだけど……マメな後輩たちには先を越されたか。
まぁ遅刻しなかっただけ良しとしよう。

「あ、茉莉先輩おはようございます!」

私の姿に気づいた一年生たちが一斉に向き直ると元気に挨拶してくる。

「おはよう、早いね」

「はい! いつも先輩に準備させてしまっていたので、今日は先輩よりも早く来て準備しようって話をしてたんです!」

「別に気にしなくていいよ? 私が自主的にやってることなんだから」

「いえ、そういうわけにも……先輩も試合がありますから……」

ウチのテニス部の女性コーチは割とほわっとしてるので、いわゆる体育会系なノリがない。
よって開始前の準備や挨拶、練習メニューに至るまで、基本的にはキャプテンである私がしないといけない。

いや、いけないこともないのだけれど、とはいえ私がやらないとならないような気がしてるので、キャプテンになってからは私がやっている格好だ。

「気にしてくれるのはありがたいけど、それのせいで練習不足になりましたとかにはならないようにね」

「はいっ! 大丈夫です! ありがとうございます!」

うんうん、やっぱり後輩はこれくらい素直じゃないとね。
そもそも好きでやってる事だ、あまり後輩に負担は掛けたくない。

「ところで……野々花は?」

周囲をキョロキョロと伺ってみるも野々花の姿はない。

そもそも今日は私がギリギリだったので、もうそろそろ集合時間の筈だけど……。

「えっと……あの……それが……」

「ん? 何?」

おさげ髪の一年生、ゆかりちゃんが申し訳なさそうに俯いてしまう。

「あの……野々花ちゃん午後の授業で足をくじいてしまって……」
「えっ!? 大丈夫なの!?」

「大きなケガではなかったんですが、大事を取ろうってことで今は保健室で休んでます」

あいつ……またどっかで転んだのだろうか。
ホントおっちょこちょいなんだから。

「んー、わかった。それじゃちょっと様子だけ見てくるから、その間の練習は柿崎さんの指示に従って進めて」

私は二年の柿崎ちゃんにあらましを説明して後のことをお願いすると、保健室へ向かうことにした。

「すいませーん、うちの野々花がお世話になってると聞きまして……」
「あ! 茉莉ちゃん、ごめ〜ん」

ノックしながら保健室に入ると、先生の姿はなくベッドの上から野々花が謝ってくる。

「アンタねぇ……この時期になにやってるのよ……川口先生は?」

「川口先生はほかの先生と話があるとかで今いないよー」

「あそ。ところで足の具合は? 捻ったんだって?」

「えへへ……またやっちゃった」

野々花は照れ笑いをしながら、足首に巻かれたバンテージを見せる。

「ちょっと……大丈夫なのこれ?」

大事ではないという話だったが、バンテージの量が尋常ではない。
ここまで固定するとなると相当のように見えてしまい、私に焦りが出る。
野々花も次の県大会は初めての大会で思い入れがあるはずだ。

「あ、これは違うの! ほんとはそのままでよかったんだけど、一応巻いておこうかな〜って自分でやってたらすごい事になっちゃって……」

がくっ、と膝が崩れる。
なんというかこの子は……ほんと焦らせないでほしい……

「なによ……それじゃ別に大したことはないわけ?」

「うん! 先生もちょっと挫いただけなのですぐに腫れも引くと思う、って言ってた!」

「はぁ……なんか今日はもう駄目ね、調子が狂いっぱなし」

野々花のせいでもないが今日は歯車がおかしいらしい。
なんだか、どっと疲れてしまい、ベッドに腰かけて一息つく。

「どうしたの茉莉ちゃん?」

「別に。まぁこういう日もあるな、って思ってたところ」

と、慌てて走ってきたせいでリボンが外れそうになってしまっていた。
私はリボンを整えると、今度は外れないようにきゅっと結びつける。

「あ、それ私があげたリボンだよね!? さっそく使ってくれてるんだ!」

「あぁ、これね。そうそう、これのおかげで助かったわ」

「助かった?」

理由がわからないようで、きょとんとする野々花。

「まぁいろいろあるのよ。とにかく助かったの、ありがと」

「茉莉ちゃんが素直にお礼言うとか珍しいね、ふふっ」

何がおかしいのか、野々花はくすくすと笑う。

「なによ、私だって言う時は言うのよ、ドジっ娘に笑われたくないわよ」

なんだか恥ずかしくなって野々花の頬をつねる。

「いひゃあああ、いひゃいよ、まふりひゃあああん」

ぐにぐにぐに、とつねると足をばたつかせて涙目になる野々花。
どうやら足は問題ないみたいね。

「人を心配させたんだからこのくらいは我慢しなさい。まったく……」

「ぐすん……茉莉ちゃんがスパルタ……」

「こんなんでスパルタだったら、この後の練習なんてできないわよ」

冗談半分でいじけてみせる野々花に言い放つ。

「さてと……それじゃ私は練習に戻るけど、とりあえずアンタは休んでなさい。大したことないとはいっても時期が時期なんだから」

「はーい、ありがとう」

私はベッドから立ち上がると、そのまま保健室を出ようとする。
「あ、茉莉ちゃん!」

「ん? 何?」

野々花に呼び止められて振り向く。

「リボン、すごく似合ってるよ。かわいい。それと心配してくれてありがとうね、嬉しかったよ」

満面の笑みで言われて、ボンっと顔が紅潮するのがわかる。

「……バ、バカ。いいから休んでなさい」

ぶっきらぼうに言い放って保健室を出る私は、たぶん顔どころか全身真っ赤になってるんだろうな……なんて思いながら、恥ずかしくなって走ってコートに向かうのだった――